合気道は『虚構フィクション』?!

 合気道は『虚構フィクション』?!

       流山合気道倶楽部 大岩亮太


前回のブログで合気道が虚構かもしれないと述べたこと、について少し説明が足りませんでした。


「合気道は格闘技としてリアルじゃない!」

「あれでしょ?やらせでしょ?やってるんでしょう?」

「弟子がよく教育されている。」

「馴れ合いだよね」

「達人は保護されている!」

「実戦には通用しないね」


色々言われます。


問われると、全てその通りだ、と私は答えています。


そう、合気道は『虚構〜フィクション』


なのです。


最も良くないと思うのは、これをフィクションとは思わず、自分は強いんだ、最強だ、などと勘違いする合気道家が多い事です。タチが悪いとおもいます。段位が上がれば上がるほど、先輩になればなるほど、女性よりも男性にこの傾向は強くなります。そして教え魔と化します。


本筋から外れました。

じゃあ、逆に問いたい。

虚構じゃない格闘技ってありますか?


みんなルールの中での競技なのです。競技柔道の歴史は危険技は全て禁じ手として封印されて来ました。もちろん合気道の関節技はほぼ禁じ手の部類です。

競技剣道は勿論、「真剣」で斬り合う事はしませんよね。

ボクサーは素手では殴り合わないし、蹴りもしません。

相撲取りは寝技を使わないし、レスラーは口から毒霧を吹きません。


総合格闘技はバリートゥード(何でもあり)と言われ、競技格闘技の中では比較的ルールが少ないですが、目突き・金的・後頭部への急所攻撃など禁止されていますね。


彼らはそのルール内で競い合い、最高のパフォーマンスを手に入れたものが勝利を掴めます。その専門分野のなか、そのフィールドの中で果てしない稽古や練習無くして頂点には立てないでしょう。


その様なところで他の分野の人間が踏み込める余地はないのです。


そこにあるのはそのフィールドの中だけで成立するリアルがあるからです。


そういう意味で私は合気道もその他競技格闘技も虚構ではないかと、飛躍した事を言っているだけなのです。


では、もしこのルールを無くするとどうなるのか。

試合は死合いとなり、戦闘となり、兵器合戦となり、結局行き着くところは核兵器にまで発展してしまう、というのは人類の歴史が証明しています。かろうじて戦争にもルールがあり、その人類が作ったルールと言う『虚構〜フィクション』でわずかながらの道徳心と恐怖心で核戦争を踏みとどまっているだけかも知れません。人類は広島と長崎と言う現実を知っていますからね。


また話が外れました。


では合気道のフィールドとは何でしょう。

合気道には試合がありません。想定された攻撃に対処する型を覚えます。攻撃する側を「受け」、対応して技を掛ける側を「取り」と言います。そしてその役割を決めた上での攻防稽古、ただそれだけを反復する稽古となります。


競技では無いため、競技を主体とされている方には勝ち負けが無いので、「何が面白いの?」という事になるでしょうし、「馴れ合いでしょう?」という事になります。


この限られた技の攻防の中で我々は何をやっているのか。


先ほど柔道の禁じ手のとなったと言った様な柔術由来の技が主体としてありますが、取りはこの攻防の中でいかに効果的に最低限の力で相手を無力化出来るかという事を研究します。しかし当然柔術由来の技である関節技で相手を痛めつけたりも出来てしまいます。受けも当然どの様な技をかけられるか承知の上で受けているため、抵抗したり、技を返したり、やり返したり、何でも出来ます。そして

上記の様な稽古風景(つまり俺は強いんだ!)の様な稽古風景がよく見られるのもこの合気道界でよく見られる現実としてあります。


合気道には武器取りという杖、剣、短刀、小太刀、昔は槍、銃剣などに徒手で対処する技があります。これらに対応する型と言うものがあるのです。これら型稽古とは、それらが実に生身の刃である真剣を想定して稽古をします。触れれば切れるものとして想定します。つまりはその出会いが生死を分ける究極の状況を想定しているのです。


そう、この想定というものが、実は合気道の中で非常に大事であり、徒手同士でも、この間合いであれば当身が有る、などその場面その場面ごとの想定を、お互いに作りながら稽古をしているのです。


それには受けもしっかりとした攻撃が出来なれば技として成立しないという事が言えます。たまに正面打ちや横面打ちを見ていると、惰性で打ったり、腰が引けて手だけでヒョロっと打ったりしている人を見かけます。これでは取りは技が成立しません。そもそもの型として想定した場面となり得ないからです。

取り技でも片手取りを見ているとガチガチに握ったり、ふわふわに握ったり。ガチガチに握って「どうだ何も出来ないだろ」なんて人はそもそもの想定がおかしいのです。なぜなら握られていないもう一つの手で殴られる距離にいるにも関わらず、その受けの人は鈍感にもそこにいるからです。

実はこの様な方は高段者になればなるほど多くなる傾向があります。


試合が無いので、何とでも想定が出来、何とでも解釈出来てしまうのが合気道界の良いところでもあり、悪いところでも有ります(だからますます馴れ合いだと言われてしまう)。ただその様な真実を知る事で、お互いが真剣に稽古に向き合う姿勢を示し、少しでも良い方向で稽古が出来れば良いとおもいます。


私の師匠である遠藤征四郎師範は


「もっと弱くなれ」


と言います。

この強くなりたいのに弱くなれとは?とこれこそフィクションに聞こえるかも知れませんが、この考え方を我々、特に遠藤門下生たちは大事にしております。


型を通して

相手と相対した所から、

相手と触れ合った所から、


相手の心を察知し、

相手の心を誘導し、

相手の崩れざるを得ない所、倒れざるを得ない所へと誘えるか。


その為に、

この技を早く、強く決めてやりたい、

この技を相手に効かしてやりたい、

もっと痛くさせてやりたい、

もっと遠くに飛ばしてやりたい、

強い所をみせてやりたい、

これらの感情が邪魔をしてしまうのです。


つまりは弱くなること、これは決して消極的になるということでは無く、頑張ったり、強張ったり、踏ん張ったりを止めて、全身をリラックスする事で、肩や腕の力が抜け、心の状態もニュートラルになり、その状態こそが相手の心を敏感に察知する能力を引き出し、相手の動きを敏感に察知する事を助け、次何をするべきかを瞬間的に教えてくれる。


現代のど根性スポーツ論やスポーツ医学ですら真逆の方向性かも知れません。

どこか、禅とかメディテーションの様なものの方が近いかも知れません。

どうしても、この様な内なる研究は競争競技の中で培うには、遠回りになってしまう傾向があるともおもいます。


その点、この合気道は受けの協力が必須となりますが、お互いに真剣になればなる程、より確実にその高みを知ることができ、稽古自体がより楽しく、愉快になってくると思うのです。


だから前回のブログにて、どうせ(AIの様な)虚構なら、こっちの(ある想定のうちで稽古し合うと言う)虚構(〜フィクション)に騙させても良いのでは無いかと言ったのです。


合気道と言う世界に足を踏み入れて頂けると、その奥深さと愉しさに気付いて頂けるとおもいます。






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