合気道

 これは新潟西新潟道場に所属した時の交換日記制度がありその時に寄稿した文章です。


『合気道』

2017年4月6日 大岩亮太

合気道は形稽古。技を掛ける役、掛けられる役、互いに役割を決めた上で行う。これは日本古来の武術全般にわたる教授法だ。


剣もヤワラ(小具足)もずっとそうしてきた。しかも剣もヤワラもセットで教授されてきた。

江戸の末期に竹刀と防具が発明され、その教授法は一変した。しかもその防具を利用した者たちは滅法強く、形稽古だけに頼ってきた人達をコテンパにしてしまった。ヤワラでも同様に競技を主体にした教授法が嘉納治五郎により発明され、形稽古のみの団体は転向を余儀なくされ、競技主体になってしまった。これが今の武道会の実情である。


 ここで合気道は何故競技をしないのか。の疑問にいたる。


  それは競技つまり勝ち負けを主体にしているわけでは無いからである。

 勝ち負けを主体にするにはルールが必要になる。

すると人はそのルールに縛られる。例えば剣道では、面がね1センチずれれば一本にはならず、受け手は首を少し傾げれば避けられる、つまり打突不十分となる。

ヤワラでは技を掛けられない様にいわゆる亀状態にて審判の「待て」を待つ。

しかしどれも真剣の場では死を待つのみである。


  合気道はこのお互いの役割つまり攻撃する側とされる側の分担を明確にし、攻撃の最悪の状況を想定した上で、いかにに有効にその攻撃に対応出来るかを研究します。この研究が実に面白い。物理学と心理学と精神医学と社会コミュニケーション学と宗教学と何から何まで多岐に渡りその人の研究分野に斬り込みます。例えば攻撃する人の心理と攻撃される側の心理が、技に現象として現れます。


攻撃する側⇨こいつに技ができない様にしてやろう。

攻撃される側⇨こいつの攻撃を何とか反撃して逆に痛い目に合わせてやろう。倍返しだ!!

こういうタイプは想像つきます。肩はイカリ、腕は棒となり、足は居着いた状態。お互いがこの様な状態では最悪です。


これは極端ですが、皆が何処かにこんな気持ちを抱いて稽古しているのでは無いでしょうか。その居着いた気持ちが技を硬直化させるのです。


 師範は言います。「指先まで気を充実させろ」と。「しかし全ての力は抜けていなければならない」と。


何この矛盾!と思うかもしれませんが、それを身をもって体現してくれます。

 どこかに「こいつを、投げてやろう」とか、「この技を極めてやろう」とか、「カッコ付けたい」とか「モテたい」とか思った瞬間に身体に力がはいります。そして技の崩壊が始まります。


 「受け(攻撃する側)」はどうでしょう。

「俺は先輩だからおめの技なんか掛かってヤン無いもんね、へ!」みたいになって居ませんか。

そこからは何も得られません。相手から何も感じ取れません。競技では無いのだから今更「勝つ」必要は無いでしょう。


では「取り(攻撃される側)」はどうでしょう。

せっかく役割分担でわざわざ受けを取ってくれている人に対して追い討ちをかけて技を掛けている様なことがありますよね。見せ場だからね、気持ちはわかりますが、相手は痛いだけで、嫌な気持ちしか残りません。


 いい稽古というのは、受け取り共にギリギリの状態(真剣)で技を仕掛け(受け)、それをさばく(取り)。そのお互いが触れ合う部分よりお互いの微妙な力や感情や空気を感じ取り、流れをつくる。常に留まるところを作らず、腹は充実し、パワーとなす。それは力のパワーでは無く、気持ちのパワーだ。ただ座り、ただ立つ。そこから産まれるパワーだ。


これはお互いの充実となり、練り合いである。練り合いを鍛えるのが、鍛錬である。これがいい稽古であり、発展のある稽古であり、競技では味わえない楽しさでは無いのかとおもいます。。。



流山合気道倶楽部


  

コメント

このブログの人気の投稿

合気道との出会い

合気道は『虚構フィクション』?!

おおぐろの森はおおたかの森