合気道の求めるところ

過去にフェイスブックに掲載した文章


『合気道の求めるところ』


2017年12月  大岩亮太


合気道を始めて26年になります。


稽古を始める前の20歳の頃、朝日新聞の文化面で大東流合気柔術の故佐川幸義先生の取材記事があり、木刀のツカを持ったまま弟子が宙に飛ばされている写真に目が釘漬けになり、この様な武術が世にあるのかと思い大学の図書館を漁り、どうも合気道が近そうだ、と思ったのが始まりです。当時は合気道や大東流に関連する伝記や小説、その他を読み漁り、武勇伝やら名人技に心踊りました。「触れたら相手が飛ぶ⁈物理的にはあり得ないが、もしかしてあり得るのかも知れない」。


 そんな期待を胸に地元の合気道のクラブに入会して実際始めました。


 最初は合気道の技の持つ合理的な術理が純粋に楽しく、いかに相手に技を効かせるか、を探求することがひたすら楽しいものでした。しかし当初抱いていた名人技に行き着くには果てしなく遠いものに思えました。


  その頃は先輩に技をかけても上手くいかず、力任せにやるもさらに上手くいかず、先輩のアドバイス通りやってもそれを意識するあまり更に上手くいかず、空回りの連続でした。


力を抜けと言われても力の抜き方が分からない。ただ型通りやれば上手くなれると信じていました。


 転機は4,5年目のある時、千葉県の講習会で遠藤師範に出会ってからだと思います。そこには右も左も表も裏も関係ない、受けが自由にどの様に打って行こうが、自由に対応される姿がありました。ただ自由、つまり何にも束縛されていない姿をその技の中に感じました。その後遠藤師範の稽古に参加させて頂くことになりました。ただ稽古では、先輩からあれこれ教わることもなく、黙々と稽古をするだけ。受けではただただ遊ばれてしまい、稽古後には起き上がれないほどでした。技は基本の技ばかり、木剣の稽古もなしです。しかし師範は「そんな(他の技をやっている)時間が有りますか?」と言います。当初は何のことやら分かりませんでした。


  繰り返し繰り返し、ひたすら基本の技ばかり、しかし師範は大事なことを教えてくれていました。「相手をいかに倒すかではない。自分の心がいかに落ち着いていて、自由でいられるかだ」


多分師範は何度も何度も稽古の中でおっしゃられていたのでしょうが、それに自分が気がつくのには10年の歳月が必要でした。


 相手を倒さなくても良いという気持ちになってからは合気道が非常に楽になりました。心だけでなく不思議と技も楽になったのです。


 技で相手を倒す合気道で、倒さなくても良い、とは一見矛盾した考えに思えるかもしれませんが、「とにかくこの技で倒さなきゃならない」という気持ちがなくなれば、「表がダメなら裏に行こうとか、ちょっと方向変えよう」とかそれでも一生懸命抵抗する受けの人には「そもそも技かけることないや」って思えるようになったのです。なぜなら決められた技の掛け合いを「掛けさせない」なんて状況は世の中にはないでしょう、って事です。真剣の場ではそれは死を意味します。ですから私はどんな状況でも稽古は真剣です。相手がどんな人でも例えば初心者でも取りでも受けでも隙を見せることはできません。教えることより学ぶことの方が多いからです。


 そのような心の呪縛は体の呪縛となって様々なところに鍵を掛けています。例えば呼吸法で「肘は伸ばさなければならない」といえば「曲げてはならない」という呪縛にとらわれます。」今やってやっているのはそんな自分の呪縛を探し出し、その鍵を開ける作業です。どこに鍵が掛かっているのか、それがなかなか見つけられません。


 これは師範の言葉です。


「自分の心を見つめなさい。心と身体は両輪で片方が欠けても前に進まなくなります。」


今、私は若かりし頃に夢見た「名人技」やら「触れたら飛ぶ技」には興味がなくなってしまいました。そんな事にとらわれた時に体の膠着が始まる気がするからです。ただ今やっている事にヒントは感じられるし、十分未来を感じます。まだまだ長い合気道人生、更なる「自由」を追い求めていきたいと思います。

 

流山合気道倶楽部





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