教育と思い込みと決めつけと

 教育と思い込みと決めつけと

            2026年4月10日

       流山合気道倶楽部 大岩 亮太     

「三つ子の魂百まで」

「雀百まで踊り忘れず」


英語にも同様の表現がある。

“Old habits die hard.”


恐ろしいことに、過去に学んだことや身につけた習慣は、その人の人格を形成し、そこから外れることを容易には許さなくなる。さらには、そこから外れたものを排除しようとする働きさえ生じてくる。


これは誰しも経験があり、思い当たる節もあるだろう。


教育や体験から得られた「思い込み」や「決めつけ」は、その後の人生に良い方向性を与える一方で、時にマイナスにも働く。


合気道で言うところの『型』は、まさに最初に与えられる教育であり、その後の合気道人生の方向性を良くも悪くも左右する。そしてそれは、時に長く自分を縛り続けるものにもなり得る。


一度身についた『型』を、そこから打ち破ることは容易ではない。


例えば、箸の上げ下げについて「その使い方はおかしい」と言われたら、どう感じるだろうか。まさに、そういうものである。


この「型を破る」ということも、他者から強いられてできるものではない。

先輩から指摘されれば内心反発し、後輩から言われれば腹を立てる人もいるだろう。


つまり、自分自身で違いを認識し、新たな方法を試す。その試行錯誤の末に「こちらの方が良い」という発見や気づきに至ったときにのみ、人はそれまでの型を書き換えることができる。


そこには、驚きや喜びといった前向きな感情が伴う。そしてさらにそれを磨き上げようとする。


このような発見や気づきに至る過程には、自分自身の納得や合点が不可欠である。


これが「変化する」ということである。


では、その変化を妨げるものは何か。


それもまた、自分自身である。


ただし、教育という仕組みの中では、師の在り方もまた大きく影響する。極端に言えば、師が「変化してはならない」と言えば、それで道は閉ざされてしまう。そこには師や先輩の責任も少なからず存在する。


例えば、「師範を凌いではならない」「師範は絶対である」と思った時点で、この教育はそこで停滞してしまう。


ましてや不幸にして、その師が根本から誤っていたとしたら、どうなるだろうか。


我が師、遠藤征四郎師範は「師は三年かけて探せ」と言われる。


私にとって師とは、範を示し、ヒントを与える存在である。


遠藤征四郎師範はまた、次のようにも言われる。


学びには古来より『守・破・離』という段階がある。


まず『守』。

型を学び、忠実に真似る段階であり、伝承を重んじる段階である。


次に『破』。

ここで初めて、既存の型を見直し、自らの理解によって再構築していく。


そして『離』。

型から離れ、自在となる境地である。


今、問われているのはこの『破』の段階である。


師範は「変化を恐れるな」と言う。

さらに、ダーウィンの言葉を引き、「変化するものだけが生き残る」とまで言われる。


この『破』とは、単に型を崩すことではない。

学んだ基本を根本から見直し、その本質を自らの身体を通して探り当て、自分のものとしていく過程である。


その先に『離』がある。


しかし、そこで終わりではない。


師範はさらにこう付け加える。


「離るるとても基(もと)な忘れそ」※


これは、茶人 千利休の言葉として伝えられるものである。


どれほど型を離れたとしても、根本を忘れてはならない。

そしてそのとき、初めて基本の本当の意味が理解されるのである。


最後に、これは師範の言葉である。


〜守破離〜

忠実すぎる「守」は形骸化に陥りやすく、

安易な「破」は混乱を招き、

軽薄な「離」は不安を解消できない。

               遠藤征四郎


※千利休「利休百首」より


規矩(きく)作法

守り尽くして

破るとも

離るるとても

基(もと)な忘れそ

(基本を忘れるな)


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